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目次
介護の世界
在宅や施設で働く介護者の方々は、日々激務に追われています。
毎日の業務に追われて動きまわっている、その間にも「トイレでおじいちゃんが転んでいた」とか「窒息しかかっていた」とか思いもかけないことが日々おこってくるものであります。
介護の仕事に全く興味がなく、派遣つなぎとしてなんとなくこの業界に飛び込んだ方であっても、次第に高齢者たちのかわいらしさに気づいてくると、仕事として面白いと感じます。
介護の仕事は実に奥が深く、面白いです。
自分の言葉かけひとつや工夫次第で、人間対人間の関係はいくらでも奥行きが広がり、ふとした瞬間に解決の糸口が見つかのが醍醐味です。
安全第一
介護系のお仕事では、やはり一番大切なのは、利用者さまの安全と安楽を守っていくことです。
しかし、安全面ということになると、どこまで見守って介助していくことができるのかは、非常に悩ましいところになります。
身体拘束は法的にはアウトになりますが、やむにやまれず病院などでは使用しているところもあります。
※同意書の無い身体拘束は高齢者虐待に該当します。しかし、同意書があっても無くても身体拘束をされている側は拘束されている事に変わりはないのです。
慢性期の病棟では、基本的にはまずは離床センサー(マッタ君やセンサーマットなどと商品名でいわれております)などのアラームを使うところから始まります。
転倒転落のリスクが高い患者さんをどのように予防するか、そのリスクのアセスメントをしていくことが大切となります。
上手にアラームのクリップを自分で外して、脱走をしてしまう方の場合は、次の段階へと進まなくてはいけません。
このアラームに関しては、身体拘束には該当せず「グレーゾーン」と呼ばれております。
身体拘束にならない事から安易に使用されている為、その事も監視(間接的に抑制)といった視点から問題となっています。
身体拘束
そもそも、身体拘束をしなくてはならない理由をまず考えてみましょう。
自分を傷つける可能性がある患者さんや利用者さんであった場合、まずは縛らない方法を考えます。
無意識のうちに、点滴を抜いてしまったり、自分の両腕を傷つけてかきむしり続けたりという自傷行為がみられる場合もあります。
患者さん自身にそれをとめることがコントロールできない場合は、守るべきところをカバーしていく方法を試みるのが、まず第一弾としてやるべき対策です。
すなわち、両方の上腕にペットボトルなどで作ったカバーをかぶせて、点滴刺入部をまもる、両手にミトンをかぶせて傷つける行為から守っていくようにするといったところです。
ICUなどで、人工呼吸器が装着されている方では、挿管チューブを自己抜管されてしまうということも時々耳にします。
あってはならないことですが、命をつなぐための医療機器ですので理由がない限り、外されないように守ることが最も大事なことです。
この場合は、手を縛るというよりは、挿管チューブの外径にさらに太い上手なチューブをまくことで解決した例もありました。
患者さんがつかむことはやめさせないかわりに、チューブ本体をにぎりこんでテンションをかけさせない構造をつくることで、抜管を防げたわけです。
医療行為自体は、患者さんや利用者さんにとって必要なことであっても、本人にとっては不快で、恐怖でしかないということもままあります。
その気持ちによりそい、なるべく不快をとってあげることも重要ですが、なぜいまやっている行為が必要なのか、説明をくりかえし理解をもとめていくことも同じくらい大切なことです。
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最後に
転倒転落や抜去など、自己予防につとめるためには、ある程度ナースコールシステムの改良や頻回ラウンドなど、マンパワーとお金も必要になってきます。
しかし、どこまでお金をかけられるかということになると、要は経済ですので施設によっても限度があります。
在宅などで、老々介護されている方など、365日24時間休みなくみていなくてはいけない方は、やむにやまれず、自分の親を縛った経験のある方もあるかもしれません。
介護体験記などを読んでいても、介護者が自分の睡眠時間を1時間確保するために、泣きながら親を縛ったという実体験などかなり世の中には行われていることのようです。
その是非について、論議はあるかと思います。
非難することは第三者としては簡単にできますが、高齢者虐待というふうに安易にきめつけて攻撃するのは早計かもしれません。
なぜそこに至ったのかというところに気持ちを寄せて考えていく必要があります。
実際、床ずれが形成されてしまった親の傷を完全に治すために、そこに手をもっていかせないためにやむにやまれず手を枕に固定して縛っていたという例もありました。
これも広義では、身体抑制ということになるかと思いますが、親のことを思って善意で家族は行っていたわけですから、もちろん責めることはできませんでした。
身体抑制を行っていたとしても、家族は愛情をもっていないわけではありません。
一見他者から見て、これは虐待といえるのではと思えるようなことであっても、実際そのおばあちゃんが亡くなったあと、一番誰よりも悲しんで、「もっともっと優しく見てあげればよかった」と自分を責め続けるのも一番身近の主介護者だったりするのです。
家族関係は愛情うずまいていますが、それが介護者と被介護者との間にも複雑に横たわっているのかが垣間見えるのが身体抑制の世界です。
また、最近の裁判では介護者に対して厳しい判決が続いています。
このような状況では、人権より安全を優先するケアを行う事が求められます。
形あるものを食べれる人も「喉を詰めたら困るのでお粥や刻み食にしよう」歩ける人も「こけて骨折したら訴えらえれるから車椅子を使用しよう」など、レベルの低下を勧めるケアしかできなくなります。
厚生労働省は身体拘束ゼロを勧めていますが、身体拘束を行う事がリスクを回避する方法にならない事を祈るばかりです。
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